JUNKIRENZE(ジュンキレンツェ)-松本順子のオリジナルジュエリー

Civita di Bagnoregio の続き

Civita di Bagnoregio の続き

一昨日の続きです。
住人の男性から聞いた話が興味深かったので、それを。

日曜日に見た景色はこんなだったのですが、
画像の説明

1800年代には、こんなだったのです。
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現在橋が掛かっている場所には、道と分かる、周囲から少し高くなった地盤がありました。
よく見ると途中に、左手に分かれる細い道もあります。
現在では浸食によって無くなってしまいました。

もう少し年代を遡った1600年代には村の地盤はこの1800年代の写真よりも左右に広く、その分町も今より大きかったようです。
それが、1600年代の終わり(確か1699年と言っていたと思います)にあった地震で両脇が崩れてしまい、写真の様になったそうです。

その後、地盤の浸食が進んだ為に、1922年に初めて橋が掛けられました。
その時の橋は、橋の下にアーチを描く石造りの橋だったそうです。
でもその石造りの橋は戦争で爆破されてしまいました。

次に作られた橋は、木造の橋でした。
その写真がこちら。
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ロバが写っていますね。

木造の橋は1964年まで使われ、1965年から現在の橋になったそうです。

1800年代の写真と、日曜日の写真を比べると、200年余りの間に地盤が小さくなっているのが分かります。
いつかは本当に消えてしまうのかなぁ、と思うと寂しい気がしますが、今自分達が住んでいる場所もいつ何があって姿を変えてしまうか分からないかぁ、とも思います。
この町は消えゆく姿を惜しまれつつ時を経ているのですね。

遠方からの様子がとても素敵ですが、内部も素敵でした。
画像の説明
 
こんな感じで、町中石造りで、住人やお店の人達が花を綺麗に飾っていました。
使われている石はやはり凝灰岩で、軽石の様に気泡の様な穴が沢山開いていました。

町の中を歩いているとあらゆる様子に見とれてしまい、写真を撮る事をすっかり忘れてしまった為、帰り際町の入り口付近で慌てて撮った写真なので良さが出ていないなぁ、残念。

現在の町の造りは古代ローマ人が築いたのが基盤ですが、この土地を住居とし始めたのはエトルリア人でした。
エトルリア人が造り、その後ローマ人も使用した地下室もありました。(そこはオリーブオイルを絞ったり、ワインを貯蔵していた所で、その当時の道具などを見る事ができて面白かったです。)

町の中から周囲を見渡すとこんな風景。
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これだけ地層に囲まれる場所に立ったのは初めて。
とても綺麗でした。

季節を変えて再び訪れたいという気持ちでこの場所を後にしました。

ところで、ここへ行くにはフィレンツェから高速道路でローマ方面へ行き、途中のオルビエート(Orvieto)という出口で降りるのですが、前日に行き方を調べながら写真を見ていたら、以前どこかで、「オルビエートの辺りがなんとかかんとか、天空の城ラピュタがなんとかかんとか、、、」と読んだか聞いたかした事が思い出され、もしかして?と思っていたら、当日にお土産売り場で売っている葉書や日本語表記の張り紙を見て「やっぱりー!」と思い、家に帰ってから調べてみたら、宮崎駿さんの「天空の城ラピュタ」のモデルとなったのではないか、と言われている場所のひとつでした。
宮崎駿さんファンにはよく知られた場所なのかもしれないですね。
それとももう結構有名なのかな?
シャトルバス乗り場のお土産屋さんに、「日本のお客さんは10パーセント引き(ポストカード以外)」と日本語で書いてありました。
どんな場所か分からなかったので、おにぎりやお弁当を持参して行ったのですが、観光客向けのレストランが沢山あり、あれ~そうなんだ~、という感じでした。
まあでも、ひっそりした場所を探して、素晴らしい地層を眺めながらおにぎりを食べたのもそれはそれで良かったかな。

ラピュタのモデルと言われる所以は、どうやらこの町の冬の景色のようです。
冬には、橋も地盤も隠してしまう雲海が広がり、雲の上に町が浮かんでいる様に見えるそうです。

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